◇リアルのゆくえ -おたく/オタクはどう生きるか◇

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書 1957)

東浩紀の新作(対談モノ)が出たので読んだ。

正直、何をとやかくケンカみたいなラチのあかない議論ばかりを繰り返してるんだってなやりとり(大塚英志と東浩紀)がつらつらと載せられています。けれども、繰り返される二人の議論の中に彼らの考え方が表されていて、ぼくはそれなりに楽しく読む事ができました。

ぼくは大学3年生の時に「動物化するポストモダン」を読んで以来、この人の考え方にものすごい影響を受けています。たぶん著者が意図するメッセージなんて、もしかしたらこれっぽっちもまともに受け取れていないような気もするんだけれども、それも受け手の自由だと思うのでまぁいっか。
「ゲーム的リアリズムの誕生」とか、他著書のいわゆる「オタク」カルチャーを細かく考察する部分(ライトノベルとかぼく詳しくない)は、正直ぼくの知識では理解できない部分が多いのですが、「大きな物語の凋落」や「データベース型消費」という考え方はぼくにとっては新鮮だった。

ぼくが大学時代に所属していた研究会の先生はポストモダンマーケティングを提唱?している人で、ぼくはそこに所属した時点から、ポストモダンとはなんぞやって、気になっていました。
東さんは表層的に捉えれば少しこの今の世の中に対して悲観的というか不干渉というか、半ば諦めに近いものを抱いているように受け取られかねない表現をしています。でも、私も少しそれに共感できてしまう部分があるのです。

ひとつ。著書と、ぼくが考えている事。

著書より以下。

「ぼくの基本的な考え方は、、、(中略)、、、今のポストモダン化し動物化した世界、あまりに肩肘を張って大人になろうが公的になろうとかするとむしろ鬱になるので、適当にぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きるべきではないか、というものです」
また、東浩紀は己の事を「多文化主義のポストモダニスト」と称する時があって、さらに「多文化主義のポストモダンな社会においては、基本的に思想は自由なんです」って言ってる。

以下は、ぼくが考えている事。

今のぼくの考え方もそれに少し似た部分があって、膨大な情報量に接する毎日の中で、何が正解なのかを判断する事もできず、ふんわり神話的な向かうべき方向の道しるべもなく、それでいて生殺しのような状態で「生かされている」(あくまでぼくの実感値)と感じる日常の中で、何を全面否定するにも全面肯定するにもものすごい方向から多数の矢印から攻撃を喰らいうるような状況を生きていて、そんな何かが急激に広がりすぎているように感じる世の中では少しこじんまりとファミリーだけで生きていくのも悪くないのかなとか思ったりするのです。たぶん東さんが言うインターネットの出現が与えた社会に対する変化の部分をぼくがちゃんと理解していないからたぶんものすごいチープな考えになってしまうのだけれど、現にぼくは上記のように感じるときがある。SNSやらに象徴されるネットワーキング行為も、もちろん人間のつながりを広げるってな外向きの力もあるけれどおそらくもっと有効に作用しているのはいわゆる内輪(ウチワ)の力である気がする。インターネット上で莫大な情報や考え方に接したときもそうだし、世界を旅していろんな人間の生き方を目にし考え方に接したときも、他者を見ると同時に自身を顧みて/考え直して、それで自分の生きているフィールドはこれくらいのものなんだ/ぼくがメッセージを自分の口で/表現で伝えられる限界はこれくらいなんだって、悲観的かもしれないけれど妙に広がりすぎた「何か」と広がろうとする「何か」に疑念を抱いた。
ちょっと飛躍するけど、無理に何かを広げる必要はないと思う。ただ、どうしても今の世の中はそれをしいている部分があるように感じられる。それは消費にも良く表れているし、正直広告代理店の業務は本質を見失ってその「広げる」行為を助長しているだけのように見える、時がある(守備)。

ふたつ。プロフェッショナル意識について。

ひとつめとは関係ないんだけど、論壇に立つ人のプロ意識ってもんを感じました。
前近代はどうだったかしらないけれども今のぼくらには他にもいくつかのコミュニケーション手段が提供されている(というか、自然に身に付けている)。ただ、そんな中でも言葉を己の唯一の表現手段として生きる人はやっぱりプロ意識がハンパない。自分が言葉を扱うことに対する自信と、それに伴って生じる責任が、ハンパない。何かの事象に対して、「こう思うんです」の結論を言ったら、しっかりその理由を説明する必要がある。人間はやっぱり、人から結論を聞いてそれが腑に落ちなかった場合、「なんで」を言ってしまう。もしそこで言葉意外の表現手段を己の武器だと考える人は、「えーとですね、こんな感じで」と絵を描いたり踊ってみせたり歌ってみせたりすることができるけれども、論壇に立つ人は純粋な言葉でしっかりと説明責任を負わなければならないんだなと、あらためて仕事に対するプロ意識というものを考えさせられた。それでもこの作品の中には「言葉は希望か、無力か」ってな章がある。この人たちでも悩むんだ、苦しいなぁ。

以上。14分。
反駁を受ければ笑ってごまかす、でしか対応できないこと間違いなしの私のたわごと。
でもやっぱり感じた事を何も伝えずモンモンしてるだけではズルいしむなしくなるだけだから、苦しいけれど書くことと伝える事は続けようと。そうしないと、絶望の中に希望がこれっぽちも見えなくなる。

4 Comments

  1. End@

    今僕が読んでいる本。

    『なぜ国家は衰亡するのか』中西輝政

    一言にポストモダンと言っても括れないけど、このオッサンは、ポストモダンはしばしば近代を超克すると称して、実は近代的な思考の枠組みを何が何でも否定しようとしている、だからそれ自体がそもそもの精神の喪失、つまり退廃の現象=自己喪失の風潮を生む元凶だっしゃ!(クソ要約)みたいなチャレンジングなことを言っていて、ふ~んと読んでいたところです。同テーマの対称的意見があまりにもタイムリーだったのでついつい不毛なコメントを残すヤツ。

    因みに、あたいは今のこの世の中に対してやさぐれ感はそんなにないけどね。でもそれは僕のバカの壁かもしれません。君の文章読んでいたらそう思った。

    以上。14秒(嘘)

  2. もりやま

    きむはやっぱりクリエーターですね。

    俺の表現手段はモノだけど言葉が無いとなりたたないものがほとんど、近年はとくに…。絶望的な状況こそオリジナリティを生む剣が峰と思ってやらざるを得ない毎日です。

    とか言って最近モンハンとかにちょっと手を出したりしてました。やばいと思って辞めました。笑
    (14時間以上プレイ)

  3. minae

    言葉を書くことも喋ることもむっずいね。
    韓国時代いかにニュアンスで生きてたかを実感しました。

    お互い健康に留意しましょ。

  4. Sung

    >えんだ
    どちらかというとその人の考え方のほうがスタンダードだし保守的な感じな気がする。それに「国家」ってみたいなこと、もう東さんは否定しています。そこの時点で、真逆のことを言っているというか、話している次元が違いそうですw 今あるものが壊れるってな発想のほうがより現実味があるようにぼくは感じるけど。

    >もり
    もりさんってなんかゲームに対して結構特別な思いありそうだよね(勝手な推測)コトバがないと成り立たないもの多いけど、かっこいいものってコトバないよね。でもいきなりコトバなしでやると失敗するよねw

    >みね
    しゃべる方が、考える時間がないから楽。書くのは、大変だ。書いてるうちに違うこと考えて路がくねくねになる。。

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